天国と地獄
 

2023年6月16日更新

第223回 日本の危機について <その9>

前回のコラムで、日本は米中の間で今後生き残って行くにあたって
大変な問題を内部に抱えていることをお話ししました。

日本は今から約160年前の1868年に、それまで誰も経験したことのない
「明治維新」という革命を体験しました。
これは、世界の歴史の中でも非常に“特異な革命”と言われています。
その後の日本の命運を分ける、極めて重要な転換点だったわけですが、
残念なことにそれを実際に体験した人たちは、もうこの世の中には存在しません。
昨年亡くなった私の父親が大正14年生まれで、亡くなった時97歳でした。
今では、大正時代の最後の方に生まれた人がやっと生きているくらいですね。

この明治維新とその後の日本を、
壮大な人類の歴史上の大きなトレンドに当てはめてとらえ直してみたいと思います。
以前、当コラムで「800年周期説」について説明しましたが、
この説に従うと20世紀の最後の頃から21世紀の2075年くらいまでは
東洋文明と西洋文明の盛衰が交差する時期に当たります。
西洋が没落し東洋が上昇してくる時期であり、
およそ100年でそのバランスが入れ替わるのが21世紀というわけです。
この〝交差点″というのは人類にとって非常に危険な時期で、
昔から文明の消失、帝国の滅亡、戦争、天災、疫病、動乱などが無数に起こっています。

たとえば、今から1600年前(800年周期が2回で1600年前ですね)には、
ローマ帝国が崩壊しゲルマン民族の大移動がありました。
その後ゲルマン民族はヨーロッパ中に流れ込み、
西洋は400年もの間、暗黒の中世という最も暗い時代に突入します。
それから時代が下り、今から800年前になると今度は逆に東洋が没落して、
西洋が隆興してきました。
その前後には十字軍戦争があり、東洋と西洋が激突して東西文明の隆盛と衰退が加速します。

ちょうど800年前、中国では宋という国が滅びつつありました。
北方から最初は金<キン>という国が攻め入ってきて、
中国の半分を盗られてしまいました。
押しやられた宋は、南宋を興こします。
淮河という、長江、黄河に続く中国大陸第三の川を境に北方は全部金に盗られたのです。
そしてその南宋も、最後は異民族のモンゴルに侵略され滅亡して行くのです。

チンギス・ハン率いるモンゴル軍は、ものすごい戦闘能力を持っていました。
西方にも侵出し、アラブの高度な文明を持った城壁で囲まれた諸都市を
全部壊してしまったのです。
攻められるアラブ側もそう簡単には降伏しませんでしたから、
モンゴル軍は力任せに「城ごと屠る」、つまり城ごと全部潰して全員殺してしまったといいます。
なんと凄まじいことでしょう。
チンギス・ハンについては、井上靖が「蒼き狼」という小説で書いていますが、
かなり脚色されカッコよく描かれています。
しかし史実では彼は、ヒトラーの100倍くらいひどいことをしたのです。
チンギス・ハンが侵略し、アラブの諸都市も中国も容赦なく破壊・蹂躙したため、
その高度な文明が両方ともほとんど崩壊してしまいました。

それと時期を一つにして、西洋が勃興して東洋が没落する次の時代へと移行するのです。
西洋諸国では、十字軍戦争の戦利品を持って帰る航路からやがて貿易が始まりました。
その貿易の集積地が、イタリア半島の東の付け根にある港町・ベネチアでした。
富が集積したベネチアは、当時世界屈指の大都市に発展しました。
そのベネチアに行くと、そこが文明の交流点であったことがよくわかります。
中心地にあるサンマルコ広場の周りには巨大な寺院がありますが、
よく見るとキリスト教の様式と言うよりもアラビア風なのです。
それは、交易を通してアラビア文明の情報がたくさん入ってきたからなのです。

また、ベネチアからイタリア半島を南西に進むと内陸の町・フィレンツェがありますが、
14世紀にはここでメディチ家という貴族が台頭し、
銀行を作り、ヨーロッパ中に金融システムを広めました。
さらにもうひとつ、イタリア半島の西の付け根にあるジェノヴァも
商船や軍艦による通商で発展し、巨大な経済力を得ました。
これらイタリアの諸都市の繁栄から“ルネッサンス”が花開き、
さらには科学技術が大いに発展し、現在までの西洋文明の繁栄が続いているわけです。

このように、800年周期の大きな流れで見れば
20世紀前半までの約800年は西洋が発展したわけですが、
今や東洋の伸長が著しく、時代の流れが東洋に移っていることがわかります。
もうこれは、疑いようのない事実ですよね。
中国経済の大発展、その次にはインドの成長が目覚ましく、
かつて西欧の植民地だった東南アジアも発展しています。
それと対比して、逆にヨーロッパは今、
ウクライナ問題をはじめ何か力を失いつつある印象です。
800年周期説の説明の折には「覇権の移行」についても触れましたが、
今はまだアメリカがぎりぎり最後の覇権を握っているものの、
いずれこれが中国に移るのではないか、という大きな流れがあります。

では、覇権の移行を迎えつつある歴史の大きな流れ中で、
明治維新とそれ以降の日本をどうとらえたらよいのでしょうか?
日本という国は、もちろん東洋の国のひとつなのですが、
ペリーが1853年に来航するまで鎖国をしていました。
ロシアなど、いくつかの国の軍艦はちょこちょこ日本近海に出没してはいましたし、
オランダなどとの交易も限定的にはありましたが、
どの国も日本を開国させることはできませんでした。
江戸の泰平をぶち破ったのは、ペリーの太平洋艦隊だったのです。

彼らは江戸湾に侵入してきて、「本当に大砲をぶっ放すぞ!」「江戸を火の海にするぞ!」
と脅し、江戸幕府と交渉を始めたのです。
その後、日本は“幕末の動乱”を経て“明治維新”という革命の後には“西洋”を受け入れ、
「西洋に追いつけ、追い越せ」と一気に親西洋の国になりました
(もっとも、太平洋戦争の時は「鬼畜米英」と敵視し、罵りましたが)。
明治から大正にかけては、特にその傾向が強かったようです。
明治5年、新橋と横浜を結ぶ日本初の鉄道が開通しましたが、
当時は駅のことを「駅」とは呼んでおらず、「Station」(ステーション)と英語で呼んでいたのです。
技術や製品だけでなく、言葉すらそのまま西洋を持ち込んだのです。
大学の授業も、ほとんどが英語かドイツ語でした。
それを、後の時代に翻訳して行ったのです。

これほどまでに文明が転換したという意味でも、
明治維新は実に不思議な革命でした。
幕末期、多くの志士たちは「尊王攘夷」を唱え、
「武力外交を迫る外国は叩き切れ!」と言っていたのです。
しかし、その志士たちが実際に新しい政府を作ると、
コロッと手のひらを返して「時代は西洋だ!」となりました。
はたから見ると摩訶不思議な話ですが、しかしそこには大きな理由がありました。

維新を主導した薩摩藩と長州藩は、
維新前に実際に外国と戦争し、そして大敗を喫しています。
西欧列強の実力を知っていた彼らは、
「今は西洋には敵わない。彼らから学び、国を強くしよう」と考えました。
そのため、大政奉還で江戸幕府が終わると、
開国そして西洋化という流れを推し進めたのです。
維新の4年後には、西欧諸国をより知るために岩倉使節団が結成され、
日本の政府要人の半分がなんと約2年間も欧州に派遣されました。

そして、日本を担う彼らは現地を見て、さらに驚愕するわけです。
こんな巨大な文明と武力と技術を持った国々と、
せいぜい刀や火縄銃(多少鉄砲は輸入していたかもしれませんが)があるくらいの日本。
何も持っていないも同然の日本にとって、
彼らはとても太刀打ちできるような相手ではないと気付くわけです。

それからの日本は、欧米にいかに追いつくかで必死でした。
「富国強兵」の旗印のもと、西洋化、産業化を急速に推し進めました。
その甲斐あって、日本は東洋にあって唯一の文明国に発展します。
明治維新からわずか約40年後の1905年には日露戦争にも辛うじて勝利し、
西欧の一等国にも比肩するかという国になりました。

しかし、そこが新生日本のピークでした。
日本は日露戦争に勝利したことで増長し、だんだんおかしくなってしまったのです。
しかも運悪く、そこに天災と恐慌が襲いかかってきました。
大正12年には関東大震災が起こり、首都・東京が大打撃を受けます。
震災復興に向けて銀行が手形などを出すものの、
震災処理がうまく進んでいない間に「昭和恐慌」(昭和2年)が追い打ちをかけます。
さらにその2年後の1929年(昭和4年)には今度はアメリカを起点とした大恐慌がおこり、
日本にもその影響が直撃しすさまじい不況が到来したのです。

当時「大学は出たけれど……」という言葉が流行りましたが、
今では考えられないほどの、恐ろしい就職難が訪れました。
当時の大学というのは、今の大学とは違います。
大学の数も学生の数も今より圧倒的に少ない時代でした。
田舎では高校に上がるのですら珍しかった時代です。
そんな中での「大学出」というのは、とんでもないエリートだったのです。
そんな彼らですら、就職先がないというのです。
何しろ1929年の就職率は30%、
その後さらにひどい時期には、1桁の時もあったというから驚きです。

さらに、異常気候も追い打ちをかけました。
夏でも非常に寒く、東北地方では米も採れない程で、
農家では娘を売らざるを得ないくらいひどい状況になりました。
こうした不運も重なり、国民の不満はどんどん高まっていきました。
そうした機運を軍部が吸収し、「515事件」「226事件」などが勃発します。
さらに軍部が増長すると、政府をも付き従わせるようになりました。

結局、最後はアメリカを相手に勝ち目のない戦争に突入し、
国富の大半を投げうって4年近くも戦い、完璧に負けてしまうのです。
現在、太平洋戦争では「終戦」という言葉を使いますが、これは完璧に敗戦ですね。
そして無条件降伏となり、今度は明治維新とは違う形で
西洋(アメリカ)第一主義となって行くのです。

 
明治維新後の160年間、この国は西洋に追いつけ追い越せと常に目標として進んできた。
途中、戦争や恐慌も経験しながら今に至るわけだが、
ここにきて日本の一人負けの様相を呈し始めている。
800年周期説によると次の800年は日本を含む東洋の時代になるはずなのだが、
日本は置いてけぼりをくうのだろうか。
(2023年4月 チャート研究家の川上明先生と 東京・御茶ノ水にて)