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2025年10月20日更新 |
第267回
島国・日本からヨーロッパへ出発 |
今回の旅程は、夜9時50分に羽田を出発するエールフランス便から始まりました。
出発は、ほぼ定刻通りでした。
以前は、羽田や成田を離陸すると関東上空から新潟、佐渡島の横を通って北上し、
奥尻島の西側を抜けてロシア上空に入りシベリアを横断、モスクワを経由してロンドンやパリに向かうルートでした。
ですが、現在はロシア上空を通過できません。
どのような経路を飛ぶのか、少し興味がありました。
今回の飛行ルートは、羽田を離陸後すぐに北上し、
茨城県の霞ヶ浦か水戸あたりから東へと針路を取り、太平洋に出ました。
その後、北海道の南を通過し、北方四島、カムチャッカ半島、
アリューシャン列島方面を経由して、アラスカ上空へと向かいました。
ここまで無着陸です。
続いて、グリーンランドを通過。
氷の広がるグリーンランドの映像を撮影しましたが、想像以上の迫力でした。
そこからアイスランドの横を抜け、イギリスのスコットランド上空を経てロンドンの脇を通り、
最終的にパリに着陸しました。
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上空から見た世界最大の国立公園
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北東グリーンランド国立公園 |
思っていたよりも時間はかかりませんでした。
所要時間は15時間と言われていましたが、実際の飛行時間は13時間50分ほどでした。
こうした長距離飛行には通常の旅客機では対応できないため、大型機に増槽タンクを搭載しているのでしょう。
飛行時間が約14時間でも、実際には燃料を16時間分ほど積んでいるはずです。
このような超長距離対応の機体は、そう多くありません。
ちなみに、帰りのルートはどうかというと、おそらくパリからトルコ、イラン、イラクを経て、
パキスタン北部のカシミール、そしてチベットを抜けて上海へ。
そこから日本海・東シナ海を渡り、鳥取付近から日本列島を斜めに縦断し、
伊豆諸島・大島方面から羽田に戻るルートだと思われます。
このように遠回りする理由は、偏西風の影響です。
風上に向かって飛ぶと燃料の消費が激しいため、なるべく追い風を受けるルートを選ぶのです。
ロシア上空を通れないことで片道約2時間のロスが出ますが、その分、帰路ではイラン・イラクの空を飛び、
チベット上空も見られるかもしれないと思うと、楽しみでもありました。
さて、今回のスケジュールは羽田からエールフランスでパリへ。
そこから乗り継いでベルリンに向かいました。
パリからベルリンまでは約1時間半。距離にして1,000キロ少々で、本当に近いと感じました。
ベルリンはドイツの北端に位置し、ポーランドとの国境近くです。
ジェット旅客機の平均巡航速度は時速800キロ。
追い風があれば900キロを超えることもありますが、平均的には800キロ程度。
そのため、1時間半で到着できるわけです。
これまでヨーロッパには何度も訪れていますが、ベルリンは初めてでした。
観光都市ではないため、これまで訪れる機会がありませんでした。
今回ベルリンに行った最大の目的は、前回のコラムでも書いたように
ポツダムにある「気候影響研究所」を訪れることです。
そしてもう一つ、「ヒトラー最期の地」をこの目で確かめたかったというのもあります。
しかし、せっかくベルリンまで来たので、東西冷戦時代の「壁」も見ておこうと思いました。 |
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1989年に壊されたベルリンの壁
当時、左奥のビルからロープに滑車を付けて
西側へ脱出した逸話もある |
当時、東からはソ連軍、西からはアメリカを中心とした連合軍が進軍し、
どちらが先にベルリンを制圧するかを競うような状況でした。
ソ連はモスクワを起点とする陸続きのため、有利でした。
アメリカはイギリスを拠点とする補給線が必要で、時間がかかります。
その上、ソ連軍は復讐心に燃え、怒涛のように押し寄せてきました。
私が皆さんにぜひ見ていただきたいテレビ番組があります。
NHKの『映像の世紀』というシリーズの中の1本で、
ドイツとソ連の戦いを中心にしたドキュメンタリーです。
非常に衝撃的で、気の弱い人なら卒倒してしまうかもしれないほどの内容です。
私たち日本人は、太平洋戦争で約300万人が亡くなったとされ、甚大な被害を受けました。
東京は焼け野原となり、原爆も投下されました。
それでも、世界最大の犠牲者数を出したのは、ソ連(現ロシア)です。
なんと、2千数百万人が命を落としています。
その理由の一つが、ヒトラー率いるドイツ軍が撤退の際に
通過する村をすべて焼き払い、住民を殺害して行ったためです。
ユダヤ人だけでなく、ロシア人も無差別に虐殺されたのです。
このためソ連軍は復讐に駆られ、ベルリンへとなだれ込んで行きました。
彼らがベルリンで行なったことは、あまりに残酷でここでは書けません。皆さん自身で調べてみてください。
そのドキュメンタリーでは、当時のドイツ側の証言も登場します。
戦争はお互いを狂気に追い込み、復讐心に駆られてしまいます。
絶対に避けるべきものです。
ヒトラーは、空襲を受けたベルリンの官邸から地下に移り、巨大な地下防空壕で生活していました。
日本は1945年8月15日に降伏しましたが、ドイツはそれより少し早い5月上旬に敗北しています。
ヒトラーはその直前、地下の官邸で愛人のエヴァ・ブラウンをピストルで撃ち、自らも自殺。
遺体は石油をかけられ、部下によって焼かれたと言われています。
ナチスの残党の多くは捕らえられたり、自殺したりしましたが、
一部は南米のアルゼンチンなどに逃れました。
彼らを追いかける映画もあります。
戦争も、その後の逃亡劇も、まさに極限の世界です。 |
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今は瀟洒なアパートメントが立つヒトラー終焉の地 |
その後、私はワーテルローにも足を延ばしましたが、
ヨーロッパの戦争の歴史を見ると、陸続きであることの恐ろしさを実感します。
日本は島国で、地理的に特殊な位置にありますが、アメリカの地理的優位性は別格です。
太平洋と大西洋に挟まれており、他国からの侵入を受けにくい位置にあります。
核戦争やミサイル攻撃を除けば、アメリカ本土が攻撃されるリスクは非常に低いと言えます。
日本軍がかろうじてパールハーバーを奇襲した程度で、
アメリカの本土はほとんど攻撃されたことがない、安全な場所なのです。 |
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激戦地となったワーテルロー
(ナポレオン<フランス>と
イギリス・プロイセン・オランダの 連合軍 との戦い)
の様子を描いた模型と絵 |
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当時、イギリス軍の本営があった場所に位置する
ワーテルローの丘 |
日本は古くから中国の強い影響を受けており、仏教も中国から伝わってきました。
一方、朝鮮半島は大陸と陸続きであるため、常に周辺国からの侵攻に脅かされる地理的条件にあります。
そのため、住民には強い危機意識や緊張感があると言われています。
モンゴルなども同様で、大陸からの攻撃を受けると、逃げ場がほとんどないのです。
かつては、せいぜい日本に逃れる程度しか選択肢がありませんでした。
古代の大和朝廷の時代には、高句麗・百済・新羅といった三国が朝鮮半島に存在していました。
戦乱によって国が滅びると、多くの人々が日本に渡り、帰化人として受け入れられてきました。
このように朝鮮半島は、一度上から押さえ込まれると退路が断たれてしまう、厳しい地政学的環境にあるのです。
韓国の人々の外見は日本人によく似ていますが、実際にはまったく異なる民族であり、
文化や気質も大きく異なる部分があります。
むしろ、中国人のほうが顔立ちや雰囲気が日本人に近いと感じます。
韓国人は、歴史的に騎馬民族的な気質を持つと言われることがあります。
たとえば、韓国のデモなどで見られる光景として、中年の女性たちが機動隊に強く抗議したり、
時には体を張って対峙したりしていますが、そういう姿は日本ではほとんど見られません。
もちろん日本の女性も芯が強いですが、機動隊に立ち向かうような場面はそうそう見られません。
また、韓国人女性同士の喧嘩は非常に激しく、髪を引っ張り合うような場面も目にします。
それほど強くなければ生きていけないような、社会的背景があるのかもしれません。
いずれにしても、私たち日本人は島国に暮らしているという特殊な環境にあります。
そのため、島国ならではのリスクや独特の感覚・国民性があることを自覚し、
他国と慎重に向き合って行く必要があるのです。 |
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島国に住む我々日本人は、海に囲まれているからこそ
外国からの侵略から守られていた面も大きい。
陸続きの国の緊張感は、格別のものがある。
(2025年5月 ベルリンのチェックポイント・チャーリー
<第二次世界大戦後、
ドイツが東西に分断されていた時代に
ベルリン市内の境界線上に置かれていた国境検問所>にて) |
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