天国と地獄
 

2021年1月26日更新

第154回 大学時代の思い出<5ヵ月半に亘る海外遊学編⑤>

 

寝台車に乗るお金がなかったので、私は6人のコンパートメント席に乗りました。
今は違うと思いますが、当時のヨーロッパの列車というのは通路が真ん中ではなく、
左右どちらかにあったのです。よく昔の映画にありますが、
窓側に通路があって反対側がコンパートメントの4~6人掛けの長椅子になっている形です。
私が乗ったコンパートメントは、たまたま全員の国籍が違いました。
香港人、イスラエル人、アメリカ人、オーストリア人、
もう一人は忘れましたが最後が日本人の私。それでも全員が英語を話せたので、結構話が通じました。

寝台車ではありませんでしたが軽く眠って、スイスとオーストリアの国境近くで夜が明け、
最後にその部屋に残ったのは、私とアメリカ人とオーストリア人でした。
アメリカ人は50歳くらいの男性で、カウボーイのような恰好をしていてなんか不思議な人でした。
もう一人のオーストリア人は18歳くらいの女の子で結構かわいい子だったのですが、
そのアメリカ人の男が延々と口説いているのです。
もう、本当に延々と。
そして、たまにコンパートメントから出て、
通路のところの窓を開けて煙草でも吸っていたのでしょう。
女の子や私も、たまにそこに行って話をしたりしました。

するとその男性は、内ポケットに札束を持っていたのです。
100ドル札を100枚。当時1ドル=280円ですから280万円、約300万円です。
それを見せて、「俺、金持ちだから」と言うのです。
普通だったらいやらしいと思うのですが、彼は全然いやらしさを感じさせないのです。
まるで映画の世界みたいで、「この人、何をやっている人なんだろう?」
と不思議に思っていました。
そして、私がインスブルックという冬季オリンピックも開催された
オーストリアの風光明媚な観光地で降りると、彼も降りたのです。
驚いたことに、駅にはたくさんのカメラマンとたくさんの新聞記者が集まっていて、
皆、バチバチと彼の写真を撮っていました。
記者に聞いたところ、「有名なアメリカの作家だよ!」と言われました。
もしかしたら、私はそれから作家になりたいと思ったのかもしれません。
彼は何とも言えない不思議な風情があり、とてもかっこ良かったのをまざまざと覚えています。

インスブルックでは友達もいないし、当初は寂しくて大変でした。
また、こちらの希望に合う値段の宿がなかなか見つからなくて、
歩いて歩いて町外れまで行って、やっと宿の屋根裏部屋に泊まることができました。
土曜日に着いて日曜日の朝、疲れていたので少し遅くまで寝ていました。
すると、教会の鐘がものすごく近くでガランガランと鳴りました。
日曜日ですから、礼拝が始まる合図だったのではないでしょうか。
ハッと目が覚めて、パッと窓を開けたらすごい晴天でした。
「うわぁ~、どこかに行こう!」と思って町に行き、
郵便局で日本に手紙を出そうと思ったら、
そこで私より4歳くらい上のチェコ人の男性と友達になりました。
当時、鉄のカーテンがありましたから東側からは簡単に来られないので、
何とか逃げて来たのではないでしょうか。
町を一緒に歩いたり、食事をしたりしました。
日本に帰国後も5~6年くらい文通していました。
彼はその後、西ドイツでビザを貰え、そこで仕事をしていると伝えてきました。
彼のお陰で、インスブルックも楽しく過ごせました。

不思議なことに、ヨーロッパでは国境を越えた途端に食事の味が全く変わり、
フライドポテト一つでも味が全く違うのです。
オーストリアは、むちゃくちゃ美味しかったのです。
さすが帝国があったところは違います。味が繊細なのです。

そのオーストリアのウィーンに行きましたが、ウィーンは人のいない死んだような街でした。
当時は東西冷戦時代で、旧ハプスブルク帝国の継承国家のほとんどが東側共産圏に組み込まれる中で、
オーストリアは経済的には西側との関係を保ったまま永世中立国として歩んでいました。
東西を隔てる鉄のカーテンによりかつての後背地であった東欧を失ったウィーンは、
戦後どんどん衰退していたのです。
その後のウィーンの繁栄なんて、当時は想像だにできませんでした。
「人が住んでいるのだろうか? 廃墟じゃないか?」とさえ思いました。

たまたまその時、ユースホステルに泊まっていたのですが、風邪を引いてしまいました。
すると、一緒に泊まっていたスイス人が
「風邪を引いている時は赤ワインに果実や薬草を入れたものを飲んで治す」と教えてくれたので、
それを飲んでみたところ本当に良くなりました。

その後はスイスに向かいました。
スイスは物価が高いのでジュネーブまで列車で行き、2時間くらい滞在したのですが、
ただ駅の周辺を歩いていただけです。
ジュネーブ湖(レマン湖)までパッと行って、パッと帰って来ました。
異常なほど物価が高くて、怖かったのです。

ユーレイルパスを持っていると、
“カタランタルゴ”というスペインが世界に誇る超豪華特急でも1等車に乗れるのです。
それに乗って、ジュネーブからバルセロナまで行きました。
当時、スペインはバスク地方辺りの独立主義者たちが列車に爆弾を仕掛けたり、
結構テロが多かったのです。
ですから国境には憲兵がいて、日本人は調べられないので
パスポートを見せるだけで入国できましたが、
フランス人やスペイン人は荷物を根こそぎ調べられていました。
その厳しさを「すごいな」と思いました。

そう言えば、フランスでは“カルカッソンヌ”というフランス南西部にある城塞都市にも行きました。
ヨーロッパ最大級の城壁に囲まれ“シテ”と呼ばれています。
駅から延々と歩いて40分くらい坂道を上がると、そこに巨大な城があるのですが、
当時の日本では知名度は低く、日本人はほとんど誰も行かないところだったのではないでしょうか。
今は有名な場所で“歴史的城塞都市カルカッソンヌ”として世界遺産に登録されています。
次の機会にそのカルカッソンヌの話をしましょう。
ピレネー山脈が近いところです。

私の大学時代の海外遊学の話は一旦、今回で終了します。
上記のカルカッソンヌの話含め、またいつかこのコラムで続きを書いてみたいと思います。

 

半年のヨーロッパ遊学中には本当にたくさんの人々と出会った。
その後の私の方向性を決めた出会いもあった。
コロナ禍が収束したら、また旅に出たいものだ。

    (2020年12月東京・淡路町にて)