天国と地獄
 

2021年1月15日更新

第153回 大学時代の思い出<5ヵ月半に亘る海外遊学編④>

 

イギリスでのホームステイを終え、いよいよ9月末から10月末までの約1ヵ月間、
リュックを背負ってヨーロッパ一周旅行に出掛けました。
「ユーレイルパス」という、ヨーロッパ内(イギリスは適用外なのですが)が
なんと特急列車の一等まで乗り放題の鉄道チケットがあり、21日間のものを買いました。

その前後はパリで過ごしていました。以前のコラムに書いたように、
夏休みを利用して語学研修に来ていたJTBの日本人の団体と一緒になって
語学学校に通っていました。そしてその頃、その語学学校の大学内のランチを取るレストランで、
たまたま隣になったフランス人の女の子と友達になりました。
私より2つくらい年下で私が当時20歳でしたから、彼女は17~18歳でしょうか。
ブリジットという名前の女の子でした。
その時、お互いの住所(私のホームステイ先)を交換し、
その後届いた彼女からの手紙に、「遊びにおいで」と書いてあったので
「○×日に着くよ」と返事を出し、パリで何泊かしてから彼女の家に向かったのです。

パリ市内からドイツ方向に行くためには、“東駅(ガール・ドゥ・レスト)”という駅に向かいます。
当時、東駅は物悲しい駅でした。
なにせ、第一次大戦、第二次大戦とフランス人は皆、
そこからドイツ方向に戦場に行っているのです。
そして、戦場で死んだりあるいは大怪我をしたり、
ほとんどの人が帰って来られなかったのです。
ですから、東駅というのは昔から悲しい駅と言われているのです。
そこから急行に乗って、アルザス=ロレーヌ地方にあるコメルシーという町に向かうのですが、
なにしろ小さな町なので、1日に1~2本しか急行が止まりません。
アルザス=ロレーヌ地方はドイツとの国境にあり、
今はフランス領ですが当時はドイツが戦争で勝つとドイツ領になってしまうし、
フランスが勝つとフランス領になるという、複雑な地域だったのです。

ちょうど私が小学校6年の頃でしょうか、“最後の授業”という話が教科書に載っていて、
国語の重要性を説いた物語でよく覚えていました。
ご存知の方も多いでしょうがどういう作品かというと、
“普仏戦争”というフランスとドイツが戦った戦争でフランスが負けた時の話です。
子供たちは毎日国語(つまりフランス語)の授業を「嫌だな、嫌だな」と言っていたのですが、
ある日突然、親たちが全員国語の授業を見に来たのです。
子供たちが「なんで来るんだろう?」と思っていると、
国語の先生が「フランス語の授業は今日でお終いです。明日からドイツ語の授業になります。
フランスは戦争に負けたので、ここはもうドイツ領になります」と言ったのです。
それで皆、その日だけは必死にフランス語を勉強した。そういう話なのです。

ブリジットの家のある地域の話ですから、
そのことについていろいろブリジットの家族に語りかけました。
すると皆、とても喜んでくれて、着いた翌日は土曜日だったのですが、
なんと私のために学校を開けてくれたのです。
実は、ブリジットの父親はマドレーヌを作って日本にまで輸出しているくらいの大金持ちで、
町一番の有力者だったのです。
おそらく、そのお父さんが校長先生にお願いしてくれたのではないでしょうか。
何しろ、日本人が初めてその町に来た、というだけでも大騒ぎでしたから、
皆、私の顔を見に来たのです。

すでにコラムで書いてきましたように、
このヨーロッパ一周の旅は何しろお金がないものですから、
普段はユースホステルやネズミしかいないような宿の安い屋根裏部屋に宿泊していたのですが、
ブリジットの父親はその町唯一の、モダンなホテルに泊めてくれたのです。
シャワーを浴びて風呂に浸かり、
「はぁ~、いいなぁ~。ベッドもこんなにフカフカだ~!」と感激しました。
そのような思いをさせてもらった上に、
私のために学校を開けてくれてその授業をやってくれたのには、大変感動しました。

次の日も、ブリジットの家は裕福な家ですから
「今日は、ちょっと良いレストランに連れて行ってあげよう」と言ってくれました。
フランスでは、本当に良いレストランというのは田舎・郊外にあるので、車で2時間程走りました。
何もない小さな池のほとりに館があり、そこでジビエを食べました。
こんなに美味しいものを食べたのは、私の約5ヵ月半の遊学の中で唯一のことでした。

そして、滞在最後の晩はブリジットの家で食事をしたのですが、
そこには彼女のおばあちゃんもいました。
お父さん、お母さんはまだ若くて、彼女が17歳くらいですから
二人とも40歳くらいだったでしょうか。
お父さんはポーランド人で、戦争か何かから逃げてきたようでした。
それでフランスに居ついて、お菓子工場を始めて大成功したのです。
お母さんはフランス人です。おばあちゃんは、初めて日本人を見たのだと思います。
私のことを怖そうに遠くから見ていました。
宴もたけなわになった時、おばあちゃんが私に質問をしたのです。
「ところで、あなたの宗教は何なの?」と。
ブリジットが通訳をしてくれて、私が「(宗教は)ない」と答えると、テーブルが凍り付きました。
「えっ!?」と皆の顔から血の気が引いたのです。
「何か、まずいことを言っちゃったかな?」と思いました。
日本だったら、もし「オレ、宗教(特に新興宗教)に入っているよ!」
なんて言ったら逆に皆、嫌がりますよね。
しかし、当時フランスの田舎で「宗教がない」と言うと、
悪魔か得体のしれないとんでもないやつだと思われたのです。
そして、「お前は共産主義者か? 無政府主義者か?」と聞かれたのです。
そういう風に思われるのです。
慌てて、「いや、そうじゃない! 確かに薄い信仰心ですが、仏教徒です!」と答えました。
それ以来、絶対“ブッディスト”と答えています。
海外で宗教がないなんて言ってはいけないのです。日本だけが例外なのです。
フランスは、確か7割くらいがカトリックですね。

遊学中の6ヵ月間ですごく色々な経験をしましたが、
その中でもヨーロッパを旅行した時には、
「どうしてこんな人に巡り合うんだろう? どうしてこんな面白いことが起きるんだろう?
映画でもこんなこと起きないよな」というような数々の経験をしました。

いまだに覚えていますが、ブリジットのお父さんに連れていってもらったレストランの帰り道、
左手にすごく大きな丸い丘があり、その上に古代エジプトやワシントンにもある
「オベリスク」のような尖塔が立っているのです。
「何だろう?」と思い、少し不気味で不吉な予感がしたので、
彼女のお父さんに「この丘は何ですか?」と聞いたのです。
すると「あぁ、よく聞いてくれた」と言って、話してくれました。
その丘は第一次大戦の最大の激戦地の一つで、ここにアメリカの援軍が来てドイツ軍と戦い、
この丘を巡って1~2ヵ月、もう血みどろの戦いを繰り広げたそうなのです。
何千人もの人々が死んでおり、今でも掘れば骨が出てくるというのです。
そのくらいひどい戦場だったのです。

それ以来、私は第一次大戦などにすごく興味を持つようになりました。
普通の日本人は、第一次大戦なんて歴史の中の1つの出来事で、
教科書の中に“そう言えばあったなぁ”くらいのことではないでしょうか。
しかし、第一次大戦というのは1918年に終戦を迎えていますから、私が訪れた1973年当時は、
まだ戦後55年しか経っていませんでした。
もちろん、当時の記憶がある人も当然いたことでしょう。
第一次大戦は、それほど昔の話ではなかったのです。

最終日の夕方、1日に1、2本しか止まらない急行に乗ってパリに向かったのですが、
ブリジットの家族や町の人が、何十人も手を振って見送ってくれました。
それでパリに戻り、パリからウィーン行きの夜行列車に乗りました。
そして、その車内での出会いがまた、劇的だったのです。

 

偶然知り合ったフランス人の友人の縁で、
日本では知りえなかった第一次世界大戦の話などを現地で見聞きした。
数年前、約40年ぶりにブリジットに連絡をして会うことができたが、
お互い、歳を重ねても思い出は失われていなかった。

     (2020年11月 東京・御茶ノ水にて)