天国と地獄
 

2017年5月15日更新

第21回 田原坂の戦いを想う

 

先日、念願だった九州の田原坂に行って来ました。
田原坂と書いて「たばるざか」と読むのですけれども、
ご存知の通り近代日本における唯一の内戦、
西南戦争の激戦地となったところです。
戊辰戦争はむしろ革命戦争ですから、
本当の意味で内戦といえるのは西南戦争しかありません。

明治10年、征韓論に敗れて下野して鹿児島に帰っていた西郷に
それを支持する薩摩武士が従います。
西郷は一万の薩摩武士団を率いて、
まず熊本城を攻め落そうとしました。
しかし、対する小倉から上陸した政府軍が南下して来て、
ちょうど激突したのがこの熊本の北の方にある田原坂という坂なのです。

 
 




140年前の面影の残る田原坂。

耳を澄ますと
当時の戦いの轟音が聞えてきそうです。

(九州、田原坂にて)




 

「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」という
有名な歌が残っていますが、
3月から4月にかけての連日の雨の中で激戦が行われたのです。
私は、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」という本を読んで、
どうしても一度現地を見て見たいと思っていました。

現在はちょうど田原坂の上に記念館があって、
そこのボランティアの藤井さんという方が
記念館と周辺を案内して下さいました。
おそらく退職後にボランティアをされているのでしょうけれど、
私達が遠路来てくれたからと、
安い料金で2時間もおつき合い下さいました。
非常に素晴らしい方で、彼が一緒に回って下さったおかげで、
当時の戦闘の状況、歴史上の事実が
まるでその場にいたかのようにわかりました。

“行合弾”というのが見つかるのだそうです。
つまり、両軍で一日に30万発も弾丸を撃ったので、
空中でぶつかった弾がたくさん見つかっているのです。
空中で小さな弾丸同士がぶつかるなんてことは、
普通はほとんどありえません。
司馬遼太郎が書いていますけれども、
西南戦争は当時の世界のあらゆる戦争の中で
一番弾丸を使った戦争だということです。
薩摩側は銃が旧式だったので、
撃った量が政府軍とはぜんぜん違い、
すぐに弾丸が尽きてしまいます。
政府軍も弾丸がほぼ尽きる程撃ち合いました。

しかし、薩摩の武士団は強くて、
ろくな鉄砲もないのになかなか陥落しませんでした。
「示現流」という必殺の剣法を薩摩軍は持っていたのですが、
これを使って「チェストー」と甲高い声をあげながら切り込んで行くのです。
政府軍側はほとんどが徴兵された農民兵ですから、
それがもう怖くてですね。
薩摩軍はもともと戦闘集団ですし、
しかも薩摩武士団は武士の中でもいの一番に強いと言われていましたから、
それが切り込んでくるとみんな逃げてしまったそうです。
それに困った政府軍側は、会津の武士を中心に
警視庁の警視隊というものを作って、それで切り込みをかけました。

そうやって、信じられないくらい悲惨で凄惨な戦いを繰り広げました。
最終的に薩摩武士が負けて、武士というのが消えていくというわけですが、
西郷隆盛という人は武士の不満を一身に背負って、死んで行ったのですね。

日本はそういう壮絶な歴史を経て今、ここにきているというわけです。
私達は先祖達がやってきたことを、積み重ねて生きているわけです。
皆さんにも一度、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を読んで頂きたいですし、
田原坂にも行って頂きたいと思います。
そして、わずか140年前に起きた戦いに思いを馳せて頂きたいものです。

私達は今、平和に生きていますけれど、
過去の色々なことの積み重ねの上にここに居るんだということを
いつも心に留めて、先祖のやってきたことを心に留めて生きて行かないと、
どこかで道を踏み外すなと思っております。

浅井隆