天国と地獄
 

2022年11月21日更新

第209回「日本の危機」について<その3> 

幕末には外国人が持ち込んだ色々な病気が入ってきて、
多くの人たちが命を落としました。
中でも「コロリ」という熱病は強力で、
それこそバタバタと人が死んでいきました。
人々は、未知の流行り病におののきました。
幕末はそのような社会不安も渦巻いていて、
そのどん底から明治維新政府ができたのです。

ですから、明治維新が起きた頃の世の中は、
実際には大混乱の真っ只中だったわけです。
通貨も変わり、皆どうしてよいかわからず、
大富豪のほとんどは没落し、武士階級もなくなり、
その上、謎の疫病まで流行る有様です。
そうした社会への不満や不安積み重なり、
「萩の乱」や「西南戦争」などの内乱にまで発展して行ったのです。
新政府はそれらを抑えてやっと安定して行くのですが、
安定するのに10年もの歳月がかかりました。

しかも、藩も幕府もなくなってしまったので、
藩や幕府にお金を貸していた商人たちの手形は
全部紙切れになり、没落していきました。
このような中で、全てが清算(ガラガラポン)され、
戦争まで起こり、次の時代に入って行くのです。
庶民は食えなくなってしまったので、
明治4年頃には「うさぎバブル」というものがありました。

今となってはほとんどの方は知らないと思いますが、
当時富裕層を中心に珍重されていた外来種の「うさぎ」に目を付け、
多くの人がうさぎに投機したわけです。
うさぎの値段はまたたく間に上がって行き、
皆、こぞってうさぎを育てて儲けようとしていたのです。
しかし、あまりにもその状況がひどかったため、
明治政府が取り締まりました。
こんなことが流行るぐらい、皆、お金に困っていました。

明治5~7年頃は東京に住んでいる人の3割くらいは
「大貧民」といわれ、酷い状態でした。
世の中が全くのゼロから変わるということは、
実態を見ればこういうものなのです。もちろん良いこともありますが、
一部の人たち(維新期の東京に至っては、なんと3分の1以上の人たち)は
とんでもない目にあうのです。
そうした艱難辛苦を経て、ようやく富国強兵を行ない、
工業力も身に付いて、日露戦争勝利までたどり着いたわけです。

さて、日露戦争勝利の時、日本政府はロシアから賠償金を取りませんでした。
このことを新聞社は批判し、
「なぜ、戦争に勝ったのに賠償金が取れないのか?」と世論を大いに煽りました。
しかし戦争に勝ったと言っても、
日本軍はロシア軍に対して6:4で優勢に立つのがやっとで、
これ以上戦争するとお金も武器も尽きるという状態でした。
兵隊も一番優秀な部隊は皆死んでしまい、残されたのは老兵ばかり、
まともな武器もありません。
そんなギリギリの状況ですから、当然ロシアには足元を見られ、
普通は取れるはずの賠償金を取れなかったのです。

日本政府から見れば、「賠償金を取れなくてもしょうがない、
海外から莫大な借金をして戦争している状況で、もしここで戦争を終わらせなかったら
国が潰れてしまう!」そういう状況だったのです。

しかし、朝日新聞などはそんな事情をお構いなしに、
無責任に政府の弱腰を批判し、世論を煽ったのです。
それで国民が暴動を起こし、日比谷公園に何万人もの人たちが集まり、
「焼き討ち事件」まで起きました。
警察では抑えられず、軍隊まで出動し鎮圧しなければならないものでした。
私の会社の近く、新御茶ノ水駅付近にロシア正教の「ニコライ堂」という
寺院がありますが、そこも焼き討ちされそうになったのです。
軍隊が出てきて何とか守ったのですが、焼き討ちの理由は
「ロシアが悪いのだから、ロシア正教の寺院も焼いてしまえ」というものでした。
考えてみれば、この辺りですでに日本はおごり始めていたのかもしれません。

そこから日本は、おかしくなって行ったのです。
まず1923年(大正12年)の9月1日に関東大震災があり、
その後1927年(昭和2年)には昭和恐慌があり、
さらに天候不順による寒冷化に襲われた東北地方では、
やませ(夏に海からすごく冷たい風が吹く現象)に見舞われ、
ほとんどお米が取れなくなりました。
冷害によって農家の人たちは食えなくなり、仕方なく娘を東京の花柳街に売ったのです。

その様子を見ていた東北地方の兵隊たちは社会への不満を募らせ、
やがて五一五事件(1932年)や二二六事件(1936年)
などの反乱につながっていきます。
1929年(昭和4年)には、アメリカ発の世界大恐慌が起き、
世界経済はどうしようもないほどの打撃をこうむり、日本もその余波を受けました。

「大学は出たけれど…」という当時の有名な言葉があります。
大学まで出たのに仕事がない、というほどの世相を表してるのですが、
当時の大学生の数は現在と異なり、今の50分の1くらいだと思います。
また、大学は東大や早稲田大などに限られ、
今のように全国どこでも大学がある時代ではありませんでした。
つまり、大学卒とは一握りの優秀な人たちだったわけですが、
その彼らですら、就職ができなかったのです。想像を絶する不況です。

行き詰まる社会への不満や不安がいよいよ積み重なり、
やがてアメリカとも上手くいかなくなり(ブロック経済が背景にありました)、
独自の経済圏を確立しようと中国に手を出すものの世界中から非難され、
最後にアメリカと争いになり石油を止められた結果、
アメリカに宣戦布告をしてしまいます。
その後はご存じの通り、4年間におよぶ太平洋戦争の末、
敗戦してしまうのです。

このように、日露戦争の前後40年ずつで上昇~下降という大きな流れがあり、
日本という国の盛衰が80年の周期で巡っていることがわかります。
そして、1945年の敗戦によってふたたびどん底に落ちた日本は、
5年間のドサクサの時代ののちに1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が起こり、
戦争特需によって一気に経済復興が進み、
さらには高度経済成長に突入して行きます。

それを象徴するイベントとして、
1964年には東京オリンピックが開催されました。
東西冷戦という緊迫した時代にありながら
(あるいは、むしろ冷戦構造が追い風の側面もあったでしょう)、
日本はその後も経済成長を謳歌し続け、
そして1990年のバブル崩壊の直前、89年に
経済成長のバロメータである株式市場がピークを迎えます。

しかし私は、日本の実際のピークは1985年と見ています。
その後の5年間はバブルであり、あくまでも
“過熱した経済成長の余熱の時期”と見ています。
そうすると、敗戦の1945年からちょうど40年の上昇期というわけです。
1985年からが下降期だとすると、40年後は2025年、もうすぐです。

実際、今の日本は借金まみれで、どうしようもなくなっています。
今までやってきた借金経営に行き詰まり、
ツケを払って全部清算して行く時期に来ているのです。
思えば幕末の時も現在と似たような状況で、
どこの藩でも莫大な借金を抱えていました。
その中で、辣腕を振るい財政を立て直した数少ない藩が「薩摩」と「長州」でした。
ですから彼らは、国を変えるだけの力を持っていたのです。

他の藩は財政の行き詰まりから全く力がなく、幕府もお金がなく、
結局、財政破綻をしてしまいます。
太平洋戦争の時も、経済の視点で見れば実質的な財政破綻によって
軍事力が維持できず、敗戦しています。
そして今回も、財政破綻が起こりそうだということで、
いよいよとんでもない時代がやってくる可能性が、高まっているというわけです。

いつの時代もどんな案件も、経済的・財政的破綻に端を発して
崩れて行くことが、歴史を振り返るとよくわかる。
財政の安定・健全化というのは、何物にも勝る重要事項である。
(2022年10月 カギ足アナリスト川上 明氏と東京駅にて)