天国と地獄
 

2019年11月5日更新

第110回 会社経営に向いているDNA

 

前回は、私が文筆業と会社経営を生業としていること、
そして恩人に支えられながらもうまく両立しているお話をしました。
今回は、実は私が会社経営をしているのは必然だった!?という話をしてみたいと思います。

今、また司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでいます。
私は「これぞ!」と思った本を何度も読むことにしているので、
この本ももう6回は読んでいると思います。
その中に日露戦争の場面がありますが、日露戦争でのロシアと日本陸軍の戦いを見て思うのは、
日本軍というのはロシア軍に比べ、ひいき目に見ても半分くらいの戦力しかありませんでした。
兵力も半分。大砲も少ない。馬に乗った騎兵の数も
ロシアにはコサック騎兵団というすごいのがいて全然比較にならなかったのです。
それを、何とか勝てた(勝ったといいますが、6:4に持って行って
なんとか講和に持ち込んだというところでしょう)。
この時の日本陸軍の現地での総司令官というのが大山巌という、
西郷隆盛の従兄弟で西郷に最も似ていたと言われる人物でした。
彼は普段は司令官室からあまり出て来なかったらしいのですが、
そのかわり「勝ち戦の時は、皆さん勝手にやってくれ。
ただし、どうしようもなくなった時、負け戦のその時はおいどんが出て行って指揮しますから」
といつも言っていたそうなのです。

実際、とんでもない苦戦になって「これで、もう負けるか」というような、
司令部の参謀たちも発狂寸前で命令もぐちゃぐちゃになり、
現場が崩れそうになった時に初めて大山が出て来て、
「あぁ、今日は戦が結構激しいですなぁ~」と言ったそうで、
その言葉に皆がほっとして気分が落ち着いたというのです。
あの一言が無かったら、皆おかしくなってもっと酷いことになっていたのではないでしょうか。
私は、そういうのが総大将なのだと思います。

会社の経営は、命がけの戦争とまではいきませんが戦いであることは間違いなく、
現場の経営というのは経済の理論とか経済の本を書くのとはまた別の、
生きた人間が対峙する待ったなしの現実の積み重ねなのです。
そして、それを率いるのが社長業です。
ビジネスや経営ということに関して、私のDNAは結構向いているみたいですが、
それを前回お話しした、私を物書きとして知る人たちは、
まさか私にそんな才能があるとは思ってもいなかったでしょうね。

そんな私のDNAですが、当然ですが父方と母方の二つのDNAが合わさっています。
まず父方ですが、私の本名は関といいますが父は新潟で生まれています。
その祖先(十何代先までわかるのですが)は江戸時代の中期に米沢にいて、
上杉藩の藩士をしていたのです。
どのくらいの地位にいたのかは詳しく聞いていないのですが、
おそらく一番下の下級武士だったと思います。

上杉藩というのは、財政破綻しそうなくらい本当に貧しい藩で、
それを江戸時代の中期に養子で入って来た上杉鷹山が立て直したのです。
何しろ関ヶ原の戦いの時に西軍(石田三成)側、
つまり家康を妨害する側に付いていたのですから、よく潰されなかったと思います。
上杉家はあの越後の上杉謙信の次の代・景勝の時代には会津にいたのです。
豊臣家五大老の一人として、会津藩120万石を領していました。
会津の広い盆地にすごく広大な土地を持っていたのです。
それが、その北の米沢という本当に小さなところに押し込められ、
藩士だけはたくさんいてほとんど食えない状況になってしまいました。
米沢の南に位置する会津には、徳川の血を引く会津松平家を置いて、
その押さえになったのが若松城(鶴ヶ城)でした。
幕末には九代藩主松平容保は京都守護職になって、その下に新選組がいたわけです。

上杉家はその北側の米沢にいたのですが、江戸初期には15万石にまで削られていました。
私の祖先というのは、おそらく一種のうつ病になってしまったのだと思います。
武士とは名ばかりで、実際は百姓以下です。
あまりにも貧しく食べて行けなくて嫌になってしまって、そして家督を捨てて放浪したらしいのです。
もともと上杉藩というのは越後・新潟なので、新潟に何か人脈があったのでしょう。
とある商人の家に居ついたそうなのです。
用心棒をしたのか、何をしていたのかは知りませんが、
その二代目か三代目が天才的な商才があって一代で巨万の富を築いたのです。
それ以来、新潟の加茂(今でも信越線にありますが)というところで一種の財閥となりました。

幕末に長岡藩の河井継之助(家老)という天才的な人物がいましたが、
官軍に逆らって北越戦争の際、日露戦争の時でさえ日本軍はほとんど持っていなかった
機関銃を明治維新の前に横浜で買い付けました。
当時、機関銃は最新兵器でしたから、それで官軍をほとんど打ち破る寸前のところまで行きました。
ただ、その後官軍が盛り返し、河井継之助は途中大怪我をしてしまい、
負けた軍隊を率いて加茂の方に行ったらしいのです。
その時、うちの祖先がすごい軍資金(今で言えば10億円はくだらないでしょう)を
与えたのでまた戦争に行くことができたというのですから、よっぽどお金持ちだったのでしょう。
しかしその後没落してしまい、本家もほとんど消えて土地も何も全部、
寺に取られてしまったようです。このように本家の最後はあわれなものですが、
父方(関家)はもともと蓄財に才のある、商人の血筋なのです。

不思議なのは、私の父親は国鉄マンとして優秀な人物で、
昭和天皇の御前に2回も呼ばれたくらいすごい業績を残したのですが、
父の代の関家は全く経済的には豊かではありませんでした。
財閥なんて、何代も先のボンボンになってしまえば最後はもう金銭感覚はなくなってしまうようで、
私の父親の父親(私の祖父)という人が芸者遊びをして、
身上を潰してしまったらしいのです(苦笑)。
それで父の代には、経済的には普通の家に戻ってしまったようです。

一方、母方ですが、母親の母親(私の祖母)という人は、
福島県福島市の少し北の方の桑折(“こおり”と読みます)というところに
半田銀山(江戸時代の三大銀山の一つなのですが)というのがあって、
そこのオーナーの娘だったのです。
ところが私の母親の父親(私の祖父)という人は、
大正時代の平民(今はそんな言葉は使いませんが)でしたから、
当時はそういう普通の人と大金持ち(現地では名士)は絶対に結婚は出来ないわけです。
それで反対されたらしく、駆け落ちをして東京に二人で逃げて来たそうです。
それ以来、そこにいたたくさんの親戚とはあまり縁がなくなってしまったのです。
駆け落ちした祖父の姓は河村、祖母の姓は石川です。
ですから、「半田銀山・石川」で詳しく調べていけば出てくるかもしれません。
少し前のNHKの「あさが来た」という朝の連続ドラマで、
主人公のあさが幼少期から慕う人物として五代友厚が出ていましたが、
あの五代の子孫と一緒に半田銀山をやっていたのです。
ですから、父方も地方の財閥、母方も財閥に近いですね。

このような私の父方、母方の才覚・DNAが、幸運にも隔世遺伝で私に出たようなのです。
ですから、文筆業をしながら経営にも向いているという不思議なマルチ人間になったようなのです。
とはいえ、私はそんなに大きな会社を作ったわけではないので自慢できるほどのことではないのですが、
DNA上は「餅は餅屋」と言われるように、やはり祖先がやって来たことが
どこかに反映されているのではないかと感じています。

そういうわけで、私は経済を中心にいろいろなことを取材し皆さんにお伝えしているのですが、
その根本には上記のようなものがあるということを知っておいていただければ、
浅井隆を理解していただく上での参考のひとつになると思います。

          講演をする仕事も多いが、
          私の講演は難しい経済の話もわかりやすくすると評判だ。
          一般の人にもわかりやすく経済を教えるのが信条だ。
                  (2019年10月 東京・御茶ノ水にて)