天国と地獄
 

2019年7月16日更新

第99回 忘れられないNORAD取材<その2>

 

前回、NORADの取材をすることになった経緯をお話ししましたが、
最終的に東京へ転勤した直後にペンタゴンから正式のOKが出たのです。
しかし、東京の写真部長にお伺いを立てたところ、
「写真部にはそんなお金(取材費)はない」、
そして「本当にどこまで写真をとらせてくれるか、分からないだろう?」ということで、
新聞社としての取材許可を出してくれませんでした。

仕方なく私は、その足で在日米軍の報道連絡事務所に行きました。
在日米軍司令部自体は「横田基地」内にあり、立川のもっと先、
都心から車で1時間以上かかるところにありました。
電車でも1時間位かかり、とても不便な所です。
そのためメディアのための連絡事務所が、
都心の天現寺あたりの高速道路の脇にある
米軍専用ホテル「ニュー山王ホテル」
(ホテルといってもそこは米軍の敷地で海兵隊が守っており、一般人は絶対に入れません。
施設内で使用される言語は英語、通貨は米ドルです)の地下にありました。
これは現在もそこにあり、「MLO」(メディア・リエゾン・オフィス)と言います。

そこに当時、苗字は忘れてしまいましたが“ミチさん”という年配の女性がいました。
もうだいぶ前にお亡くなりになっていますが、
長いことその報道連絡事務所のトップを務めていた女性です。
当時、すでに60歳位だったと思います。
そこでは皆が下の名前を呼ぶので、私も「ミチさん」と呼んでいました。
東京に転勤してから何回か通っていたので、
その都度ミチさんにはペンタゴンとのやりとりに関していろいろと相談に乗ってもらっていたのです。

新聞社としての取材許可が出なかったあの日、
失望の中で新聞社のハイヤーでMLOへ行きました。
到着するや否やミチさんに
「いや~、新聞社から取材許可が出ませんでした。残念ですが、あきらめます」と報告しました。
すると、ミチさんから意外な反応が返ってきたのです。
「何言っているの! NORADの取材許可なんて見たことがない。
あなた、自分のお金で行けばいいじゃない。
自分で休暇をとって、行ってくればいい!」と言われたのです。
私はハッとし、「そうだ! その手がある」と気付きました。
すぐにハイヤーで会社に帰り、まだ写真部長が社にいたので、
「部長、私は自分のお金で取材に行きます。そして、夏休みを早めにとらせて下さい。
その代わり、自分でお金を工面するので、その写真の版権は全て私に下さい。
毎日新聞には、無料で最初に提供します」と交渉しました。
すると、「自分で金を出すならいいよ」とあっさりと認めてもらえたのです。
正直、部長はその“価値”に気付いていなかったのかもしれません(苦笑)。
当時、私の預金通帳にはおそらく200万円あったかないかくらいでしたが、
そのうち120万円を使うことになりました。
取材後は、ほとんどすっからかん状態になったものです。
ですが、結果的にミチさんの一言が私の人生を変えました。

NORADがあるアメリカのコロラドスプリングスという町は、
デンバーという大きな町から南へ百数十キロ位のところにあります。
NORADの広報から「何年何月何日の何時に来い」と細かく指定されており、
それがもう4日後に迫っていたのです。
私が自費で行くという決断をした時点からわずか4日後です。
躊躇している暇はありません。
すぐにMLOへ戻り、ペンタゴンに連絡を取ってほしいと頼みました。
そしてその足で今度は航空券を購入しに行ったのです。

現地までの道のりは、まずLAまで飛び、そこからデンバー、
そしてデンバーからコロラドスプリングスと2回飛行機を乗り継がなくてはなりません。
たまたま当時、ANAが初めて国際線を飛ばした頃で、
ロサンゼルスまではANAで行くことにしました。
そのあとの乗り継ぎをどうしようかと調べたところ、
コンチネンタル航空が飛んでおり、それを使ってロサンゼルスからデンバー、
デンバーからコロラドスプリングスへ行くことにしました。

当時は、現在の様に格安航空券の情報などありません。
インターネットで予約することも当然できません。
コンチネンタル航空のオフィスが丸の内にあったので、
そこに行ってチケットを購入しました。
もちろん、エコノミークラスです。
これはあとで判明したことですが、
エコノミークラスの値段は、ビジネスクラスとほとんど同じだったのです。
現在で言えば、LCCを含む格安航空券を販売しているところに行けば
もっと安い席を予約できたと思います。
しかし当時はそういうこともなく、
直前の正規料金だったので航空券代だけで50~60万円ほどかかってしまいました。
私にとってはとんでもないお金でした。
ですが、その時は値段など気にしている場合ではありません。
日時が指定されていたため、急いで席を確保しました。

次に、カメラやフィルムの準備に取り掛かりました。
NORADの地下要塞の中のコンピュータールームやコンソールがある司令部は真っ暗です。
地下要塞ですから、どこもかしこも基本的に暗いのです。
三脚、そしてASA400の高感度フィルムなどを用意しました。
かなりバタバタでしたが、寝る間も惜しんで2日で全てを用意し、3日目に出発しました。

ロサンゼルスには現地時間の昼過ぎに到着しました。
ところがロサンゼルス空港に降りたのは初めてだったので、
国際線から国内線にどう乗り継ぐかがわかりません。
最近は改善されたでしょうが、
当時の米国の空港などは掲示板や案内等も極めていい加減なものでした。
周囲にいた人に聞いたりしたのですが、誰もがいい加減で、
結局どの連絡バスを使うのかといったことがよくわからず、
空港の外に出てしまいました。
炎天下の中を30分かけて重い荷物を持って歩く羽目に陥りながら、
ぎりぎりで何とかデンバー行きのコンチネンタル航空に乗り込むことができたのです。
しかし飛行機に乗ってみると、飛行ルートはとても景色の良いところでした。
グランドキャニオンの上を飛ぶのです。
コロラド川、グランドキャニオンを通って、
ロッキー山脈を越えて降りたところがデンバーです。
デンバーというのは中西部で一番大きな町です。
この日はデンバーで一泊することになっていました。

海外に行ったことがあると言っても、
それまでの私は大学生の時にヨーロッパを貧乏旅行したことしかありません。
高級ホテルなど夢のまた夢でしたが、デンバーではちゃんとしたホテルに泊まりました。
確かハイアットホテルだったと記憶しています。
アメリカの空港では当時、空港で荷物を受け取って出たところにホテルへの直通電話が置いてあり、
それでかけるとフロントに繋がってホテルの予約ができるシステムでした。
その電話で空き状況や値段などを確認し無事にホテルの予約をした私は、
タクシーに乗ってホテルへ向かいました。
ところで、当時の私はクレジットカードを所有していませんでした。
日本では、まだ普及していなかった時代です。
しかし、ご存知の通り当時すでにアメリカはクレジットカード社会でした。
クレジットカードを持っていないということは余程のことで、
犯罪者か乞食しかいないと言っても大袈裟ではありません。
私はホテルに到着した時、クレジットカードの提示を求められましたが、
そこでクレジットカードはないと言うと、大変びっくりされたことを覚えています。
このままでは宿泊拒否さえされかねないと思い、
「日本ではまだまだクレジットカードは普及しておらず、
しかも今回は緊急で取材で来たために用意ができなかった」と説明しました。
そして取材許可書を見せると、やっと泊まらせてくれることになったのです。
しかし、カードの代わりにデポジットを出せということでしたので100ドル札を3枚渡しましたが、
そのホテルマンはその紙幣が本物かどうか透かしたりして散々調べていたことを今でも覚えています。

なんとか部屋へたどり着けましたが、
何しろ時差があるし出発までバタバタだったこともあって、
部屋に入るなり眠ってしまいました。
ところが、時差のせいで夜中に目が覚めたのです。
そして気が付いたらお腹も空いていたので、
人生で初のルームサービスを頼みました。
当時の私にとって大変贅沢なことでしたが、
なんとなくメニューが想像できるスペイン風オムレツとスープなどを頼んだのです。
すると、深夜の2時か3時という時間でしたが、
白いウエイターの制服をピシッと着た背の高い黒人が料理を運んできました。
ワゴンには白い大きなテーブルクロスを引いてくれていて、
パンもきちんと白い布にくるまれています。
大きなオムレツは出来たてで中身があふれんばかりで、
貧乏なカメラマンでしたからそんなものを口にしたことはなく、
とても感動したことを覚えています。
丁寧にサーブしてくれたので私がチップをあげると、
「Sir(サー)、Sir(サー)」(男性に対する敬称)と言って喜んでくれました。

コロラドスプリングスへは翌日の夕方出発の飛行機でしたので、
午前中は町をぶらぶらしました。
デンバーは1マイルシティと呼ばれていて、
ちょうど標高1600メートル位(1マイル=約1.609km)のところにあるので、
とても涼しく気持ちが良かったです。
デンバーからコロラドスプリングスへはバスでも行けますが、
時間を考慮して飛行機にしたのですが、
乗ってすぐにそれが正解だったと思いました。
ものすごい絶景が見られたのです。
飛行機が離陸してすぐでしたが、(南下しているので)右側にロッキー山脈、
左側にどこまで続くかわからない大平原があり、丸い地平線を見られたのです。
本当に感動しました。
30~40分ほどの空の旅で到着しました。
飛行場の周りには何もありません。
まさにただただ広大なアメリカの大西部、といった具合の地です。
その後、モーテルに向かいました。
日本だとモーテルと聞いてもあまり馴染みはありませんが、
アメリカではモーター・インという車で行って泊まれるとてもポピュラーなホテルを指します。

いよいよ翌日が取材ですので、モーテルの電話からNORADの広報に電話をしました。
すると、担当者のミセス・コーミヤーはもう帰ったと言われ、
私がどこのホテルに泊まっているかを彼女の同僚に伝えました。
明日の朝8時半か9時に迎えに来るとのことでしたが、
時差の影響やいよいよ最高機密を取材するという緊張感から
その晩は一睡も出来ませんでした。
当日の朝はフラフラの状態でしたが、時間通りにミセス・コーミヤーは迎えに来ました。


 

私のモットーは、
現地に出向いて自分の目で見て、
直接現地の人に話を聞いて、
身体で現場の空気や温度感を感じながら
取材して記事を書くことだ。
毎日新聞での経験、
そしてNORADでの経験がその礎となっている。

(2019年5月 奄美大島にて)