天国と地獄
 

2019年5月24日更新

第94回 私が毎日新聞に入社した理由<その1>

 

今回は、私が早稲田大学からなぜ毎日新聞社に入ったかについてお話しします。
大学生だった当時、私はまさにド田舎と呼べる場所に住んでいました。
実家にはそんなにお金がなかったものですから、茨城県の取手市の、
しかもJR常磐線の駅からすぐ近くではなくて、
そこからまたディーゼルカーの関東鉄道常総線に乗って2つ目(現在は3つ目)の
「新取手」という場所に父親が土地を購入しました。
私が小学6年のときです。
新取手は、山を切り開いて造成し宅地として売り出されたという、
いわゆる「新興住宅地」だったのですが、
私が高校2年の時に父が家を建てて住み始めました。
大学生時代も新取手から早稲田まで通っていたのです。

大学1年の夏休みが終わった頃、家の前の米屋の娘さんが勉強が苦手だということで、
親父さんが私に「娘に勉強を教えて欲しい」と頼みこんできました。
私は「いいですよ」と快諾し、同時にそのお友達も教えることになり、
2人の生徒を持つことになりました。
彼女達は小学5年生だったと記憶していますが、
これをきっかけに私は、いわゆる「補習塾」を開業したのです。
当時、その辺りには塾がなかったこともあり、私の塾は人気を博しました。
評判が評判を呼んで、ピーク時には6クラスほど授業を受け持っていたと記憶しています。
ひとクラス5人として30人、それに加えて大学受験の高校生1人も教えていましたから、
当時のサラリーマンの給料ほど(月25万位)の収入がありました。
現在と物価が違いますので、今で言うと50万円ほど稼いでいたと思います。
私は実家暮らしで食事も親に面倒を見てもらっていましたが、
この学生ビジネスのおかげで大学の授業料も自分のお小遣いも
全て自身で捻出することができました。

塾の経営は順調でした。
40日間ほどあった夏休みには、
生徒たちに「(夏休み期間中は)進学塾に行きなさい」と言って、
自分はヨーロッパに行っていました。
われながら、優雅な学生時代だったと思います。
そんなこんなで学生時代から食い扶持があったものですから、
「一般の就職はしたくないな」という思いが芽生えてしまいました。
将来的には漠然と政治家になりたいという思いがありましたが、
それも短期間では実現不可能ですので、
その間に何か人と違ったことをやりたいと思うようになりました。
少なくとも、一般の企業には絶対に入りたくないと思ったものです。

ほめられることではありませんが、大学では留年を繰り返し、
結局大学には7年も在籍しました。
さすがにその頃になると、親から「これからどうするのか?」と言われるようになり、
さすがに塾で一生食べていくとは考えていませんでしたので、
とりあえず家を出ることにしました。
西武池袋線の大泉学園の駅前にマンションを借り、
その1室を使って当面の間、また塾で生計を立てることにしました。
小学校、中学校の校門のところで下校時間にビラを配って生徒を募集し、
「進英システム学習塾」という、
学校の勉強についていけないお子さんに勉強を教える補習塾を開業したのです。
ビラを配る際、小学校や中学校の先生方に怒られましたが、
その場は上手くやり過ごし、塾はそれなりに繁盛しました。

すると、徐々に「このまま適当に塾を経営しながら生きていこうかな」などという
甘い考えが自分に浸透してきました。
ところが、たまたまそのあと結婚することになる女房
(残念ながら12年前にガンで亡くしてしまいました)
が私のことをものすごく叱ったのです。「あなた、何を考えてるの! 
このまま適当に塾をやりながら食べていたら、そのうちロクでもない人間になってしまうわ!
一度厳しい社会に揉まれて、そこから塾をやるなりしなさい!」と。
そして、たまたま彼女が購読していた毎日新聞の
「記者とカメラマン募集」という知らせを切り抜いて私に渡したのです。
「これを受けたら」と言うわけです。
今でこそ文章を生業としていますが、私は小学校の頃から文章は苦手でした。
そこで記者は無理だと思い、カメラマンを志望したのです。
するとたまたま合格し、毎日新聞社への入社が決まったのです。
ここが、私の社会人としての原点となるのです。


  毎日新聞のカメラマン時代に買い集めたカメラは、
一部知人にあげたものもあるが、
多くは今でも大切にしている。

(2019年4月 東京・御茶ノ水にて)